Allegro Tranquillo

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宮内孝子『作曲家大沼哲の生涯』

山田耕筰に続いて、同じく日本最初期の作曲家・大沼哲の伝記を読んだ。山田に比べて知名度の低い大沼だが、ほぼ山田の独壇場だった大正時代のクラシック作曲界において数少ない山田のライバル的存在だった。もっとも後述の通り、本書におけるライバル的描写については一考の余地があるが。

山田の3歳年下、1889年に生まれた大沼は教師だった父親の影響で洋楽に憧れを抱き、紆余曲折の末に陸軍軍楽隊に入隊する。軍楽隊は作曲を志向する青年にとって自由な創作環境とは言いがたかったが、大沼は刻苦勉励を重ね1908年には弦楽四重奏曲「幻の城・御三階」、1913年には交響曲「平和」を完成させる。いずれも日本作曲史上最初期の弦楽四重奏曲交響曲であり、時期的には山田とタッチの差なのだが、山田ほどに処世術も巧みでなく、周囲の理解者も少なかった大沼の交響曲が演奏されたのは結局10年後、1923年になってからだった。

一方、大沼は若い頃に堀内という少年の家庭教師になる。この堀内はもちろん後に音楽評論家となった堀内敬三であり、堀内と末永い友情を築いた大沼は堀内をはじめ野村光一や大田黒元雄らディレッタントの音楽青年たちが主導する大正期の音楽運動の中心人物の一人となる。また、大沼塾という作曲の私塾を開き、その門下からは菅原明朗やのちには平尾貴志男ら日本のフランス派作曲家が誕生している。

大沼の作曲家としての最盛期は宮内庁から皇太子御成婚のための奉祝曲を依頼された1924年から1925〜26年のスコラ・カントルム音楽院への留学をはさんだ1929年ごろまでらしく、この間には式典用の曲に加え、第2の交響曲夕映え—洋上にて」、ピアノ・ソナタ、チェロ協奏曲、ピアノ協奏曲などこの時期の作曲家としては珍しく絶対音楽が多数書かれている。大沼の不幸は軍部の意向によってこれらの作品の多くは演奏機会を得られず、また楽譜も接収され戦中の混乱の中に失われてしまったことである。数少ない理解者だったという新交響楽団の指揮者ヨーゼフ・ケーニヒも1929年に強制送還させられ、大沼自身も最愛の妻の死から作曲家としての筆を折ってしまう。やがて太平洋戦争が始まり、軍楽隊隊長として南方に派遣された大沼は1944年に戦死する。

晩年の不幸はさておき、本書の中心となるのは少年期から青年期にかけての大沼と、その背景となる大正から昭和初期にかけての日本の洋楽の発展である。少年期の方はいかにも明治の立志伝という感じの泣かせるエピソードが並んでいるのだが、青年期の堀内との友情、また堀内周辺の音楽青年たちのサロンの話は意外にも豊かな大正期の洋楽事情をのぞかせて興味深い。

さて本書で一番関心を惹き、かつ引っかかる点は山田耕筰との関係である。その立ち位置といい実績といい大正期における山田のライバル的存在だったことは間違いないが、一方で本書の山田の書き方はあまりに大沼を意識しすぎていて妙なことになっている。例えば山田が1914年に帰国を決意したのは大沼の交響曲が完成間近と聞いたからだとか(p.158)、「かちどきと平和」という名前は大沼に対しての勝利宣言だとか(p.166)、皇太子御成婚の祝宴曲を大沼に取られた対抗意識から日本交響楽協会を結成したとか(p.219)、こうした山田のかんしゃくを毎度大沼が大人の態度で受け流す流れなのだが、あまりに戯画的すぎるし、既存の山田研究での因果関係から乖離しすぎている。著者は大沼の実娘であり、堀内や近衛秀麿といった両者をよく知る人々とも懇意だったということなので、これが本当だった可能性も否定できないものの、両者を取り巻く噂・ゴシップの一部だったと考えた方がしっくりくる。

以下、個別メモ。

  • 大沼はアテネ・フランセ創始者であるジョゼフ・コットからフランス語を学び、同時にフランス音楽への憧れを抱いた。大沼のフランス語はフランス政府からバカロレアを取得するほど本格的なもので、後年ケーニヒと初めて会った際もフランス語を流暢に話せることで親交が深まったとか。

  • 大沼がラヴェルドビュッシーといったフランス近代音楽には触れていたことを考えると、日本のフランス派の源流は菅原明朗ではなく大沼あたりになりそうなものだが、その辺どうなのだろう? 大沼の存在が忘却されているのか、他に理由があるのか。

  • 1923年、10年越しで大沼の初の交響曲「平和」が陸軍軍楽隊オーケストラによって演奏されるが、演奏の一月前に関東大震災が発生、楽譜はすべて焼失する。しかし全楽員が暗譜できるまでに練習を積んでいたため、最初で最後の演奏会は予定通り開催され、被災した聴衆に感動を与えたという。ちょっと出来すぎの感があるエピソードだ。

  • 同じく1923年に宮内省から皇太子(後の昭和天皇)婚礼の祝宴曲を依頼される。大沼を選んだのは当時の宮内省楽部長の東儀哲三郎ということだが、山田でなかったのは東京フィルハーモニー会のゴタゴタが念頭にあったのだろうか。

  • 宮内省の依頼あってか、皇室と大沼は縁があった。自作奏上の機会以外にも、北白川宮(永久王)、東伏見宮(邦英王)といった洋楽好きの皇族にしばしば招かれていたという。

  • スコラ・カントルム音楽院卒業後の作品の多くが所在不明なのがなんとも悔やまれる。そのうち、交響曲ピアノソナタも気になるが、1928年のチェロ協奏曲はおそらく日本最初のチェロ協奏曲と思われる。