Allegro Tranquillo

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交響曲「仏陀」

気付いたらもうラ・フォル・ジュルネ直前になってしまっていたので、予習のために交響曲仏陀」を聴いた。

貴志康一:交響曲「仏陀」他/サンクトペテルブルク響

貴志康一:交響曲「仏陀」他/サンクトペテルブルク響

交響曲仏陀」(1934年)

貴志唯一の交響曲交響曲といいつつ標題が添えられ、プログラムにもかなり具体的な内容が書かれていたことから、「標題音楽交響曲を一つにしようとする題名に於いて、すでに矛盾をはらんでいた」(『貴志康一 永遠の青年音楽家』p.243)という批判を初演時から受けていたという。一方で、第1楽章は変則的ながらもソナタ形式、第2楽章はアダージョ、第3楽章はスケルツォと古典的な交響曲と呼べなくもない構成を持っていて、その中途半端さというか未完成感がこの夭逝の作曲家らしいとも感じる。

第1楽章

作曲者によるプログラムでは次の説明がなされている。

第1楽章は果てしないアジアの広がりをあらわしている。そこでゴータマ・ブッダは生まれ育ったのである。ここで彼の魂は澄み渡り、長い闘いののち彼は真に啓示を与えられた者となったのである。 (梶野絵奈、長木誠司、ヘルマン・ゴチェフスキ編『貴志康一と音楽の近代』p.182)

上記を引用した『貴志康一と音楽の近代』の第5章「ゆれる「日本」像のなかで」では、この楽章の詳細な分析が載っているので、これを参考にしつつ以下を見ていきたい。

序奏では中低弦とハープの静かなざわめきの中にホルンが響き、それに答えるようにクラリネット、続いてフルートが全音音階のフレーズを返す。この木管の順次進行で上行して下行するフレーズは、その後も変形されながら何度か登場する。やがて細かな刻みとともにクレッシェンドしていき、第1主題に突入する。

行進曲調の第1主題は弦合奏によって決然と登場する。短い経過句を挟んで現れる第2主題はより情緒的かつメロディックで、後半では長調に転じてファンファーレ的に響き渡る。そういえば音型もブルックナー・リズムっぽい。この後、3つの短いエピソードを挟んで展開部に移る。エピソード1は先の木管の登って降りるフレーズの変形。エピソード2はこれまた木管によるフリギア旋法の呼び交わしで、個人的にはここが一番好きかもしれない(ちょっとボロディンとか思わせる)。エピソード3はエピソード1の後半をソロヴァイオリンが担当する。

展開部では意表を突いて序奏の短い再現に続き、第1・2主題が転調しながら交互に展開し、再びエピソード1で締めくくられる。最後には第1主題冒頭の2小節によるフガート(っぽいもの)が繰り広げられ、新たなエピソード4も登場する。 再現部はここでもまた序奏から始まり、第1主題・第2主題がほぼそのまま再現され、最後にしつこく序奏が戻ってくるが、これまでと異なりティンパニが追加されている。

こうしてみると、概ねソナタ形式に沿っているとはいいながら、やはり繰り返される序奏には交響詩的な情景なりテーマなりが込められていそうだ。前掲書では主題間あるいは展開部における有機的な展開の弱さを指摘しているが、一方で様々な音階を多用することで、貴志のいう東洋的音楽感を表現している点も挙げている。確かに第1主題後半の和声的短音階は南アジアや中東的な響きを、第2主題は都節的な響きを感じさせる。

第2楽章

プログラムでは以下の説明。

第2楽章は気高く慈悲深い女性像であるマヤについて語っている。彼女は日本においては女性の理想像である。

ABAの3部形式。弦のピチカートに乗って木管のもの憂いメロディーが流れる。この後半は第1楽章のエピソード1の反復になっている。この流れをソロヴァイオリンが受け継ぎ、その他の弦に移っていくうちに長調に転じて中間部Bがはじまる。

ハープとチェロのアルペジオの上で木管とヴァイオリンが甘美な歌を奏で、転調を重ねながら高揚するが、唐突に第1楽章第1主題の変形と思われる重々しい金管によって断ち切られる。再びAを繰り返して閉じる。

ここで第1楽章のモチーフが登場することで、循環動機というかライトモチーフというか、楽章間で動機を使い回して曲全体を統一しようとする狙いがみえてくる。

第3楽章

プログラムでは以下の説明。

第3楽章は仏教における地獄の苦しみを伝える不気味なスケルツォである。日本の説話でによれば、地獄の入口には亡者たちを裁くことを務めとする「閻魔大王」が立っている。

仏陀閻魔大王って関係あったっけ……というのはともかく。 序奏付きの3部形式だが、もう少し細かく見るとA・B—C・D・C—B・Aとモチーフの登場順が対称的になっている。行って戻って地獄めぐり、という感じなのだろうか。

低音のトレモロで緊張感みなぎる序奏から、デュカス「魔法使いの弟子」に似ているといわれるファゴットのリズミカルな動機Aに始まり、木管の間にフガート的に受け渡され、やがてオーケストラ全体で鳴り響く。短く序奏の再現を挟み、弦の無窮動的なフレーズBに移る。

中間部では8分の6拍子から4分の2拍子に変わり、駆け足のような低音の反復音型に乗って5度で重ねられたヴィオラのフレーズCが現れるが、すぐに疾走的なフレーズDに取って代わる。ここでは第2楽章中間部のハープとチェロのアルペジオが再現され、地獄で垣間見る一筋の光明といった感がある。それも長くは続かず再びフレーズC が戻ってくる。 中間部以降はメロディーの順番が異なるほか、色々と付け加わったり拡大されたりしている。

個人的には一番演奏効果が高いと思う楽章。貴志は動機の展開のような技法は得意ではなかったようだが、単純な動機を繰り返しながらもオーケストラの機能をフルに活用するこうした楽曲では精彩を放っていると思う。

第4楽章

プログラムでは以下の説明。

第4楽章はブッダの浄化と涅槃入りを示している。

もっとも形式感が薄い楽章。冒頭こそ第1楽章第1主題から派生した動機に思えるが、それがゆるゆると転調されていくうちに、別の動機が出てきたり、それも消えていったりで、この楽章だけは雰囲気優先で作っている感じ。一応集結部では第1楽章序奏が長調で再登場し、涅槃的な境地に至ったことを示唆して曲を閉じる。

個別の楽章で書いたことの他に、ソロヴァイオリンを多用しすぎとか、意識的に似せたわけではなさそうだが手癖で似ているっぽいフレーズが頻出するとか、クラシック・ファン的に小うるさく言い出したらキリがない曲なのだが、しかしそれを補って余りある魅力もあるなあと今回聞き直して改めて思った。美メロみたいなところもそうだし、同時代の日本人作曲家が一足飛びで印象派新古典主義のイディオムを身につけた中で、ロマン派ないし国民楽派の流儀を日本的旋律と結びつけたという点で、貴志は独特の位置を占めていると思っている(貴志以降では尾高尚忠がこれに一番近いかなと思った)。

ところで今気付いたが、「日本組曲」「日本スケッチ」のオーケストラスコアも出ているのね。欲しくなってきた。

貴志康一と音楽の近代―ベルリン・フィルを指揮した日本人

貴志康一と音楽の近代―ベルリン・フィルを指揮した日本人