Allegro Tranquillo

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毛利眞人『貴志康一 永遠の青年音楽家』

今年のラ・フォル・ジュルネで代表作の交響曲仏陀」が演奏されるということで早速チケットは買い、予習のため貴志康一の伝記を読んだ。CDのライナーノーツ等から断片的に知る貴志の姿は実家の財力を背景にいきなり留学し、ベルリンフィルで自作振ったりブイブイ言わせて帰朝したが不幸にも早世した自由人のボンボン……というものだったが、これを読むとだいぶ異なる実像が見えてきた。

貴志康一 永遠の青年音楽家

貴志康一 永遠の青年音楽家

1909年生まれの貴志は幼少時にミッシャ・エルマンの来日公演を聞いて天啓を受け、ヴァイオリニストを目指す。在阪の日本人・外国人音楽家に教わったり、JOBKの放送オーケストラに参加したりするうちに、とうとうスイスへ留学することを決意する。1926年に日本を発ち、ジュネーヴ音楽院で1年半学び、さらにベルリン高等音楽学校のヴァイオリン科に入学する。日本人で初めてストラディヴァリウスを購入したという有名なエピソードもこの時期だ。

一見順風満帆に見えるキャリアだが、1930年に一時帰国して開いた各種リサイタルで技術不足等の厳しい批評にさらされ、ヴァオリニストとしての将来に不安を抱き始める。再度ベルリンに渡りヴァイオリンの修行を続けるも、その興味は次第に演劇と映画に移っていた。二度目の帰国時には映画プロダクションを立ち上げ学術映画を撮る一方で、いよいよ作曲、それも日本的音感を意識した音楽を書き始める。

そして1932年の三度目の渡独、自作映画と合わせて映画音楽を売り込むことに成功した貴志は作曲の勉強に励み、1934年には自作の映画と作曲からなるコンサートを開催する。作曲の方は賞賛と困惑が相半ばするといったところだったが、意外にもここで指揮者としての才能を高く評価される。続くベルリン・フィルとの共演では新進指揮者としての名声を確立するに至る。

1935年に帰国した貴志は相変わらず音楽事業・映画事業に邁進する一方で、いよいよ日本での音楽活動を再開する。ベルリンでの活躍を知らない日本の聴衆はヴァオリニストから指揮者への転身に驚くが、やがてその実力に気付いていく。折良く、近衛秀麿と袂を分かったことで常任指揮者不在となっていた新交響楽団に迎えられた貴志は、伝説的なベートーヴェンの第九演奏会を初めとする演奏会を次々と成功に導き、確固たる名声を得る。しかし突然の重病で入院、わずか1年ちょっとの栄光を残し1936年に世を去ってしまう。

まず一番意外だったのは、思った以上に苦労人というところだった(金銭面除く)。普通の人間なら演奏家のキャリアに悩んで映画や作曲に行くというのは迷走と呼ばれるところだが、そこでひとかどのものになってしまうという強運とヴァイタリティもすごいし、そうして生まれた数々の可能性も病によって無念のうちに終わってしまうというのも劇的だ。常人の人生では数度しか訪れないようなドラマティックな感情の揺れや人生の転機が凝縮されているという意味で、本書の表題にある通り「青年」そのものの人生だったのだろうなと思う。

もう一つの驚きは、現在のわれわれは作品を通してしか貴志を知らないのですっかり作曲家だという認識だったのだが、生前はベルリンでも日本でも指揮者として知られていたという点だ。著者は貴志が日本を離れていた1932〜25年に日本の作曲家による創作が急速に発展したことを指摘しているが、帰国後に自作を歌曲しか演目に入れなかったことを考えると、むしろベルリン時代の作品について必ずしも肯定的に思っていなかったのかも。

著者は本書の最後で貴志がもし長生きしていたらどうなっていたか、という問いを投げかけているが、その場合指揮者として大成しながらも作品の方は封印されてしまっていたかもしれないな、と少し思った。それこそ名指揮者といわれながら戦前のオーケストラ作品を封印していた山田一雄のように。どちらがいいともいえないが、個人的には貴志の作品が聞ける今の状況の方がうれしい。

その他、メモ等。

  • 昔のCDのライナーノーツとかに「作曲をヒンデミットに師事」とか書いてあったが、本書によればそれは誤りで、アカデミックな作曲を学んだのはベルリン高等音楽学校時代にロバート・カーンに師事しただけで、ヒンデミットは映画音楽の講義を聴講しただけとのこと。一方、本格的に作曲を目指した際には、エドゥアルド・モリッツという人物に個人的に師事していた(なぜかオランダ語Wikipediaにだけ記事があった)。この人物もヴァオリニスト・指揮者・作曲家とマルチな才能を発揮した人で、ある意味貴志の師匠にぴったりという気がする。

  • 同じく「指揮をフルトヴェングラーに師事」というのも誤りらしいが、一方でフルトヴェングラーとはだいぶ親交が深かったという。レオ・シロタとかウィルヘルム・ケンプとも仲が良かったということだが、この人には人たらしの才能をちょっと感じるね。

  • 人間関係でいうと興味深いのが諸井三郎。同時期にベルリンに滞在していて知らない仲でもなかったらしく、苦手な作曲の宿題を諸井にやってもらっていたこともあったとか……(p.200)。帰国後、指揮を元々手厳しい批評で知られる諸井に批判されたこともあったが、有名な第九演奏会ではその諸井から絶賛を受けたというからよほど凄かったのだろう。

  • 1931年頃に「山田耕筰や菅原明朗、宮原禎次の作品がヨーロッパで演奏された」(p.155)とあるのだが、具体的にはどういったものだろう? ちょうど山田が「あやめ」の公演のためにフランスに行ったが結局企画がポシャり、ソヴィエトで演奏活動をした時期なので自作は色々振っていそう。菅原は「祭典物語」がケルンで演奏される計画があったが結局なくなったとかどこかで読んだが、実際は演奏されたのだろうか? 宮原はベルリン留学中だったので、その時に自作をやったのか?

  • 交響曲仏陀」の第3楽章はずっとCDに「釈尊誕生〜人類の歓喜」という標題が添えられていたが、本書が引いている本人の弁によれば「不気味なスケルツォで、仏教徒の地獄での受難と苦しみを再現しました」(p.234)とか。全然違うやん。

  • 「折田洋(深井史郎の筆名)」へー。(p.309)