Allegro Tranquillo

邦人クラシック、アニメ等

大野芳『近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男』

日本最初期の作曲家に続き、日本最初期の指揮者ということで、近衛秀麿の伝記を読んだ。

近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男

近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男

近衛の幼少期から音楽を志した青年期、初の渡欧と日本人として初めてベルリン・フィルを指揮したこと、師・山田耕筰との関係と彼と袂を分かった立ち上げた新交響楽団、弟・直麿の採譜した雅楽からオーケストラ版「越天楽」を完成したこと、フルトヴェングラーストコフスキートスカニーニといった当時の超一流指揮者との交流など、帯文通り人生のどこを切っても波瀾万丈の人生が描かれている。あまりに当時の他の音楽家と隔絶したキャリア過ぎて、逆に日本の音楽史につなげるのが難しいとすら感じる。

あえて苦言を呈せば、面白すぎる人生行路のせいで交友関係や女性関係、新響はじめオーケストラとの関係が主な焦点となり、音楽自体の言及がやや弱いことか。音楽自体に関するところは基本近衛本人の著述からか、関係者のインタビューからの記述にとどまっている。正直、政治的な部分はあまり関心がないので後半は流し読みしてしまった。戦後の没落があまりに悲惨だったこともあり。そのうちもう一度真面目に読みたい。

以下、個別メモ。

  • 指揮の授業を受けるのはナンセンスというセリフが作中に登場するが、近衛がアカデミックな音楽教育を受けたのはシテルン音楽学校で指揮と作曲を学んだ数年間くらい、あとは独学らしい。学びはじめた翌年にもうベルリン・フィルを振って自作を披露しているわけだが。

  • 近衛は無数の演奏会に接することで指揮を学んだが、もう一つの学習法が、オーケストラスコアを延々書き写すことだった。学生時代、南葵文庫やはるばる九州帝大の榊保三郎所有のスコアを求めて訪れたことからはじまり、後にはフルトヴェングラー、エーリヒ・クライバークレンペラーの書き込みスコアまで。後者はよくOKしたなという気もする。

  • その特権的な地位と引き替えに、生涯を通じて準公人みたいな扱いだった近衛。学生の時分に東大管弦楽団1920年創設)などアマチュアオーケストラで指揮者をやっていたのまで新聞に取り上げられているのは流石にびっくり(オーケストラが珍しい時代だったとはいえ)。あと貴族院議員を指揮者と兼任していたというのも。実際務まったのだろうか。

  • 新響創設初期の話で「それまでフランス、アメリカ、イギリス、ロシアと、ピッチの異なる国の楽器を使っていたために不協和音が生じていた。それを統一するために、木管楽器を入れ替えることにした」(p.161)。ピッチのレベルでそんなことが起きるのか。世界基準がなかったのだろうか。

  • 近衛と関係ないが、山田が1930年「あやめ」上演のため渡仏した際、自作とともに菅原明朗「祭典物語」の上演を予定していたというのが興味深い。元々自分以外の邦人作品も取り上げていた山田らしいといえばそうだが、あまり菅原と縁がなさそうなので意外(結局計画は頓挫した)

  • コロナ事件で退団した新響メンバーに伊藤昇の名前があってオッと思う。

  • 1939年、尾高尚忠がベルリン・フィルを指揮したというのははじめて知った。プログラムは平尾「古歌」(古代讃歌のこと?)、尾高「組曲 第2番」、近衛「越天楽」、芝祐久「雅楽の動機による印象」(祐久だと若すぎる気もするので祐泰か?)、尾高「蘆屋乙女」。本書では日本人として近衛、貴志康一に続く3人目のベルリン・フィル客演指揮者となっている。録音も含めると山田もいるので4人目か。