Allegro Tranquillo

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後藤暢子『山田耕筰』

山田耕筰作品全集』の編纂に関わった山田耕筰研究の第一人者による評伝。山田の自伝『若き日の狂詩曲』で描かれた幼少期からベルリン留学からの帰国、さらにその後の日本での自作上演や渡米、日露交歓管弦楽演奏会あたりまでを、耕筰の著作や音楽はもちろん、当時の人間関係や居住地、時代風俗まで含め総合的に調べ上げている。反面、山田の生涯でよく取り沙汰される女性関係や新交響楽団をめぐる近衛秀麿との確執などのスキャンダラスな部分はやや控えめ。また、著者の認識では山田の全盛期は第二世代の日本人作曲家が活躍しはじめる1930年頃までということなので、それ以降から戦中・戦後、晩年にかけての記述はやや駆け足だが、それでもかなりの情報量だ。

本書で初めて知り、また印象的だったのは、山田の総合芸術への憧れという点。それは作曲家としては異例なほどの本人の著作から始まり、演出家・小山内薫とのベルリン時代以来の長い付き合いや石井漠や伊藤道郎ら舞踏家とのコラボレーションとそこから生まれた新ジャンル・舞踏詩など多岐にわたる。また留学以降、いわゆる絶対音楽をほとんど書かなかったことについて、よく散文的という本人の気質から説明されることが多いが、ベルリン時代に触れたR・シュトラウスら20世紀初頭の音楽潮流ではむしろそちらが普通、絶対音楽の方がまれだったという指摘もなるほどと頷かされた。

人間としての毀誉褒貶はあれど、ゼロスタートからこれだけあらゆる方面に手を伸ばし、それなりに成果を収め、後続の作曲家たちの先端的な技法に置いていかれても本人の中で何かしら新しいものを模索し続けたというのは、やはり傑物と言わざるをえないと思った。

以下、個別メモ。

  • ベルリン王立音楽院時代にマックス・ブルッフに師事とあるが、山田の在学とブルッフの勤務は1年しか被っていないので、影響を受けるというほどの関係はなかったのだろうか。ただ入学試験前にブルッフの元に面接に行ったエピソードはかなり印象的に描かれている。

  • ベルリン到着時に滞在中だった幸田延に会って、「気性の激しい延は〜山田に面と向かって、作曲はとても無理だがチェロなら合格できるだろう、と高飛車に決めつけた」(p.60)そうな。

  • 1920年の「少年倶楽部」のために作った歌曲の歌詞は山田本人によるものだが、「清水川美沙」というペンネームを使っている(p.74)。妙にハイカラな名前だと思ったが、長女の名前らしい。

  • 山田がベルリンで購入した楽譜の中にシェーンベルクの「室内交響曲第1番」も含まれていた(p.176)。同時代だから当たり前と言えばそうだが、意外な感もあり。

  • 1914年の帰国後、実はすぐドイツに戻るつもりだったが、第一次世界大戦の勃発でその望みが断たれた。戦前の作曲家には時局のせいで人生が狂った人が多いと聞くけれど、山田からしてそうだったという。もっとも著者は渡独を諦めた別の理由があったと書いている。

  • 1914年の恤兵シンフォニー音楽会では大オーケストラのための「曼陀羅の華」を演奏するために当時のあらゆる演奏者を動員し、ハープはかつての教え子だったバロン滋野の私物をパクリ、奏者がいないので友人の斎藤佳三に押しつけたという(p.211)。いい話。