Allegro Tranquillo

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津原泰水「エリス、聞えるか?」と第3交響曲

山田耕筰のことを書いていたら、ふと以前読んだ小説で日本人の交響曲が登場する話を思い出したのでメモしておきたい。『NOVA+ 屍者たちの帝国』(2015)収載の津原泰水「エリス、聞えるか?」である。

本書は伊藤計劃円城塔屍者の帝国』というSF小説の設定を使って、複数の作家が競作した短篇集。原作にあたる『屍者の帝国』には、人間を科学的に蘇らせる技術が登場したことで歴史の流れが変わった19世紀末が舞台になっており、その当時にいた実在の人物、あるいはいたことになっているフィクションの登場人物が次々と登場する。おのずと、派生作品である短篇集の方もこの設定を生かした話作りとなっている。

「エリス、聞えるか?」はタイトルから察せられる通り、森鴎外の「舞姫」が下敷きとなっている。明治21年1888年)、ベルリンから帰国した森林太郎の前に、置き去りにしたことで気が触れたはずのエリスが屍者となって届けられる。一方で、ベルリン時代に森の知人だった作曲家・東郷辰之助は病にかかり頓死するが、弟子によって屍者として蘇り、視線で弟子を指示しながら第3交響曲を完成させる。しかしその音楽には超常的な力があり、ついには軍部に目をつけられてしまう。

舞姫」のほかにも様々な外部の作品への目配せが仕込まれていそうだが、それはさておき東郷という作曲家のことである。「資産家の次男で、オルガンとマンドリンの演奏に長け、本格的な作曲術はベルリンの音楽大学で学んだ」(p.229)というプロフィールからは山田のほか戦前の作曲家を何人か思い浮かべる。実際には明治21年交響曲3作書くというのは技術的にも環境的にも無理があるわけだが、歴史が異なる世界なのでこんな人物がいてもよい。欲をいえば、一体どんなことがあってそこまで当時の日本の洋楽事情が進歩したか掘り下げられていれば、もっと興味をかき立てられたかもしれない(例えば指示通りに正確に弾く屍者の演奏家によって大オーケストラを史実より早く編成できたとか……)。

ところで、日本人で番号付きの交響曲第3番を最初に書いたのは誰だろうか。最初に思い浮かんだのは呉泰次郎だが、『日本の管弦楽作品集 1912〜1992』にあたってみたところ、呉の交響曲は第2番(1930)と第3番「雲」(1938)の間に結構開きがあった。そしてその間に3番が書いた作曲家を探してみると……いた。最近話題の大澤壽人の第3番(1937)である。大澤もそのうちちゃんと聴き直して取り上げたい。

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

交響詩「暗い扉」・「曼陀羅の華」

前回のCDの残り2曲について。

交響詩「暗い扉」(1914)

ベルリン留学中に書かれた日本最初の交響詩王立音楽院の課題としてアカデミックな書法を求められた序曲・交響曲と異なり、当時の山田の関心の対象だった後期ロマン派的な響きや大規模な管弦楽を存分にふるった作品。時代の音楽潮流に一足飛びで追いついたともいえる。しかし、いきなり4管編成のオーケストラを採用するのは大胆というかなんというか。

曲は静かで低音の下降動機から始まり、二度の全奏の激発をはさみ、中盤からは冒頭の動機の変形を元に発展して法悦的な響きへ上り詰めていく。三木露風の同名の詩に基づいているということだが、元の詩が全体的に沈鬱な死への諦念で満ちているのに対し、こちらはもう少し甘やかな感じなのは、イメージ優先ということだろうか。後藤の本では、オーケストレーションをしていた時期にリヒャルト・シュトラウス交響詩死と変容」を研究していたという。

交響詩曼陀羅の華」(1914)

「暗い扉」に続いて構想された第二の交響詩。こちらは親友・斎藤佳三の詩に基づいているが、この詩は(偶然?)斎藤の父の死と同時期に執筆され、死という題材、「死と変容」とのつながりで「暗い扉」の姉妹作となっている。こちらもやはり3〜4管編成にテナーサックスと大編成。

物憂いヴァイオリンとハープ、どこか東洋的なオーボエの旋律から始まり、やがて官能的で優美な彼岸の世界が音楽的に描かれる。詩の「遠い宮殿の窓の光」に模されたフォルテッシモののち、冒頭に似た旋律が繰り返されるが、どこかの彼岸の世界の響きを引きずって締めくくられる。

個人的な好みからすると、両曲は「かちどきと平和」で見せた展開技法から退行してより単純な形式を採用しているのでやや物足りない感があるが、若き日の山田がハーモニーの豊穣さ、オーケストレーションの色彩感を志向したのもそれはそれで分かる気がする。

弦楽四重奏曲第2番、序曲、交響曲「かちどきと平和」

本を読んだところで、実際の山田の楽曲を聴いてみる。

弦楽四重奏曲第2番(1908)

東京音楽学校時代に作曲された4つの弦楽四重奏曲の1つ。後藤の本では、山田が友人の多久寅らと結成した多カルテットのために結成したとも、和声の学習のためヴェルクマイスターに推奨されたとも書かれている。

単一楽章からなり、最初と最後に同じ旋律が出るものの、途中はあまり関連のない動機のメドレーになっている。その割に対位法的な追っかけが入っていたり、やや全体的に取っちらかった印象があり、習作の感じが強い。そういいながらも、半音階的な動きなどはすでに後につながる旋律作りの才能を予感させる。

序曲ニ長調(1912)

ベルリン王立音楽院時代に書き上げた山田最初の、すなわち日本人初の管弦楽曲モーツアルト的と言ってしまいたくなる響きではあるものの、簡素ながらソナタ形式を備え、弦楽四重奏曲からは格段に進歩を感じる。

交響曲ヘ長調「かちどきと平和」(1912)

ベルリン王立音楽院の卒業制作として作成された、日本人による初の交響曲。副題の「かちどきと平和」は作曲時のスケッチには記されておらず、帰国後の1914年のコンサートでの初演時についたとのこと。 第1楽章の序奏の動機には「君が代」の一部が引用されているということだが、動機自体ヘ音の五音音階(陽旋法)でできていて、この響きから既に日本人の音楽ということを強烈に印象づけている。続くソナタ形式の展開も優美に流れる。

第2楽章は行進曲のリズムの入った牧歌的なアダージョで、ここはあまり記憶に残らないが、第3楽章のスケルツォドヴォルザークの初期の交響曲の一節ですと言われるとちょっと信じてしまうかもしれない力強い音楽。

第4楽章のファンファーレ調と行進曲調の両主題からなる勇壮で華やかなフィナーレで、この辺は後付けの副題と割合しっくりきている。 作曲年代を考えればずいぶん保守的な音楽ということになるが、ゼロから40年ちょっとでここにたどり着いたという意味で日本の洋楽史における一つの転回点であり、またそうした歴史的な価値ということを越えて、一つのクラシック楽曲として十分な魅力を備えていると思う。

後藤暢子『山田耕筰』

山田耕筰作品全集』の編纂に関わった山田耕筰研究の第一人者による評伝。山田の自伝『若き日の狂詩曲』で描かれた幼少期からベルリン留学からの帰国、さらにその後の日本での自作上演や渡米、日露交歓管弦楽演奏会あたりまでを、耕筰の著作や音楽はもちろん、当時の人間関係や居住地、時代風俗まで含め総合的に調べ上げている。反面、山田の生涯でよく取り沙汰される女性関係や新交響楽団をめぐる近衛秀麿との確執などのスキャンダラスな部分はやや控えめ。また、著者の認識では山田の全盛期は第二世代の日本人作曲家が活躍しはじめる1930年頃までということなので、それ以降から戦中・戦後、晩年にかけての記述はやや駆け足だが、それでもかなりの情報量だ。

本書で初めて知り、また印象的だったのは、山田の総合芸術への憧れという点。それは作曲家としては異例なほどの本人の著作から始まり、演出家・小山内薫とのベルリン時代以来の長い付き合いや石井漠や伊藤道郎ら舞踏家とのコラボレーションとそこから生まれた新ジャンル・舞踏詩など多岐にわたる。また留学以降、いわゆる絶対音楽をほとんど書かなかったことについて、よく散文的という本人の気質から説明されることが多いが、ベルリン時代に触れたR・シュトラウスら20世紀初頭の音楽潮流ではむしろそちらが普通、絶対音楽の方がまれだったという指摘もなるほどと頷かされた。

人間としての毀誉褒貶はあれど、ゼロスタートからこれだけあらゆる方面に手を伸ばし、それなりに成果を収め、後続の作曲家たちの先端的な技法に置いていかれても本人の中で何かしら新しいものを模索し続けたというのは、やはり傑物と言わざるをえないと思った。

以下、個別メモ。

  • ベルリン王立音楽院時代にマックス・ブルッフに師事とあるが、山田の在学とブルッフの勤務は1年しか被っていないので、影響を受けるというほどの関係はなかったのだろうか。ただ入学試験前にブルッフの元に面接に行ったエピソードはかなり印象的に描かれている。

  • ベルリン到着時に滞在中だった幸田延に会って、「気性の激しい延は〜山田に面と向かって、作曲はとても無理だがチェロなら合格できるだろう、と高飛車に決めつけた」(p.60)そうな。

  • 1920年の「少年倶楽部」のために作った歌曲の歌詞は山田本人によるものだが、「清水川美沙」というペンネームを使っている(p.74)。妙にハイカラな名前だと思ったが、長女の名前らしい。

  • 山田がベルリンで購入した楽譜の中にシェーンベルクの「室内交響曲第1番」も含まれていた(p.176)。同時代だから当たり前と言えばそうだが、意外な感もあり。

  • 1914年の帰国後、実はすぐドイツに戻るつもりだったが、第一次世界大戦の勃発でその望みが断たれた。戦前の作曲家には時局のせいで人生が狂った人が多いと聞くけれど、山田からしてそうだったという。もっとも著者は渡独を諦めた別の理由があったと書いている。

  • 1914年の恤兵シンフォニー音楽会では大オーケストラのための「曼陀羅の華」を演奏するために当時のあらゆる演奏者を動員し、ハープはかつての教え子だったバロン滋野の私物をパクリ、奏者がいないので友人の斎藤佳三に押しつけたという(p.211)。いい話。